自室から出たジンは寮一階、軽く千人は収容できそうなほどの広さを誇る大食堂で食事を済ませた。この食堂はそのまま寮の玄関口となっており、入り口を手前とすると左側の螺旋階段が男子寮、右側が女子寮というように二階からが寮となっているのである。
 食堂という基盤の上に直方体の建造物が二つ渡り廊下で繋がって乗っかっている。
 繰り返し増設されているのか、真っ白な上の階に比べて下の階は塗料がはがれ落ちくすんだ灰色を見せていたりと積み重なった年月を感じさせている。

 しかしジンはそんなことに気づく様子もなく、他の学生たちに混ざって真っ直ぐと舗装された道を歩いて校舎へと向かって行った。
 鳥のさえずりが四方八方から聞こえるような、ほとんど森の中を歩いていくと、数分ほどで見覚えのある噴水広場に辿りついた。
 朝の日差しで眩く輝く水の飛沫が太陽の下の生活に復帰したばかりのジンの網膜を焼き付ける。眩しそうに目を細める学生はいても、ジンのように痛みで目を背けるような者は当然いなかった。
 改めて自分の体の脆さを思い知ったジンは歩きながら青い空を見上げて大きく溜め息を吐いた。この調子でこれから大丈夫なのか、そんなマイナスの思考が浮かび上がろうとしていたその時。

「ジン、ジン・リュールトンね」
「ひゃい!?」

 聞き覚えのあるような幼い声で名前を呼ばれ、ジンは裏返った声をあげた。
 昨日のガディとの再会、この場所で名前を呼ばれるのが彼の心の傷になっているようである。
 首を大きく右左に曲げるもそれらしい人の姿はなく、足を上げて体を後ろに反転させたジンの視界には校舎に向かう学生以外はいなかった。

「…………?」
「どこ見てんのよ、ここよ、ここ」

 声はする、しかし三百六十度、ジンの目に映るどこにもその声の主は映っていなかった。
 そこで今朝の出来事がフラッシュバックしたのである。

「は! まさかまた幽霊の仕業じゃ――――痛ひっ!?」

 上空に顔を向けたジンの足、具体的な部位で言うと脛から痛みと音が発せられた。
 苦痛に耐えるようにゆっくりと顔を下に向けると、小さな女の子がいた。


「まったく誰が幽霊よ、誰が」

 少女は片手を腰に当て、遺憾の意を表明していた。
 ジンの目に映った情報は、赤く輝くつり目で不機嫌そうに睨むも幼い顔立ち、後ろで二つに結ばれた透明度の高い白髪、対照的に黒を基調としたブラウスとチェックのミニスカート、その上に明らかにサイズの合っていない、勲章が大量に縫い付けられた漆黒のコートを着用していた。
 袖はだぶだぶと余り、襟は口元まで伸び、面積のほとんどを地面に擦りつけて当然のはずだが、重力を無視したように地面と水平に全体が広がっていた。

 そうして観察し、ジンは彼女と目を合わせて一言呟いた。

「……子供?」

 すると少女は年相応に無邪気な笑顔を浮かべ。

「退学させるわよ?」

 恐ろしげなことをおっしゃった。
 その笑顔から、ジンは学園長と同じ年齢詐欺オーラを感じ取った。
 同時に、退学したら堂々と帰れるんじゃないかと、朝の決意を吹き飛ばすゴミのような喜びがちらりとよぎっていた。

「担任に初日から喧嘩売るんじゃないわよ、ったく」
「担任……ですか?」

 ジンは自分の畏まった言葉に違和感を覚えつつ、そう尋ねると彼女は口角を上げて誇るように名を告げた。

「クレア・レーゲトン……どう? 驚いたかしら?」

 得意気な顔でジンを見上げる、ジンはその名を聞いて姿勢を正して平伏する……。

「……? …………?」

 なんてことはないのである。
 眉をひそめ、異界の言語で話しかけられたように怪訝な顔をしていた。

 その様子を見て、クレアと名乗った彼女はジンのあまりのアホさに一歩足を後ろに引いてたじろぐも、持ち直すと。

「…………おはよう、励みなさい」

 顔を横に向け、ちょうど通り過ぎた学生に、抑揚を利かせず幼さが引かれた氷のように冷たい口調でそう告げた。

「お、おはようございます! ありがとうございます!」

 制服を着用していたその学生は、足を止めて大きく頭を下げて心底尊敬した風にそう言った。
 クレアが立ち去ることを許可した風に手を振ると、彼は嬉しさを抑えきれないといった笑みを浮かべて去って行った。

「…………クレア、クレア・レーゲトンよ?」

 どこか不安げに、もう一度そう告げられる。
 今の様子を見てさすがに理解できたわよね? 言葉にせずともそう伝わってきたがジンの脳内には一切そのような名前のデータはなかった。
 すると、次第に彼女は目に涙を浮かべ始め、余った袖で口元を押さえた。
 一見すると、自分を知らないことへの子供の理不尽な情動に思えるが、彼女の場合は違った。

「……なんて…………なんてバカなの」
「いや、ちょっと、やめてくださいよ。あわれまないでください」
「いいの、いいのよ。分かってるから」

 慈愛に満ち満ちた目であった。
 このやり取りで、彼女の中のジンの評価が『呆れるほどにアホ』から『可哀想なほどにバカ』になってしまったのである。

「くう……!」

 今更人からどうみられようと構わない、むしろ蔑まれて然るべきと理解はしているジンであっても、さすがに名前を知らないだけでこうも態度を変えられては釈然としない。
 優しい瞳に見つめられたまま、錆付いた脳の引き出しを引っ張っり続けるジン。
 クレアという単語をリピートさせ続けていると、かつての友人の言葉が思い出された。

『俺の使ってる飛行魔術ってのはクレア・なんちゃらーって奴が作ったんだってよ』

 ジンは心の中で、ありがとうラムダ、そう告げた。
 そしてジンは最初から知ってましたと言わんばかりに自然な笑みを浮かべると。

「もうやめてくださいよ。軽いジョークですって、飛行魔術の産みの親のクレア・レーゲトン様を知らないなんて、そんな奴がこの学園にいるわけないじゃないですか」

 これがジョークだと見抜ける人間はいないだろう。
 ほんの数秒前まで冗談ではなかったのだから。

「あ、そ、そうよね。あー、驚いた。寿命縮むわよ」
「…………」

 寿命という単語にツッコンみたいジンであったが、学園長とのやり取りでうかつに女性に年齢を聞いてはいけないのだと学習していたために、口に出すことはなかった。

「それじゃあついてきなさい、無駄に時間食ったから急ぐわよ」
「あ、はい」

 早足で校舎へ向かうクレアをジンは特に急ぐこともなく揺れるコートの後ろについて歩き始めた。身長差とは恐ろしいものである。





 そのままクレアの研究室に連れて行かれたジンは、学園の入学要綱や学園全体の見取り図などなど、入学決定時に送られてくるという資料諸々と筆記用具などが詰められた手提げのカバンを受け取り教室へと向かっていた。
 魔術を学ぶ場というと、どこか薄暗いイメージがあるが、このノーデント魔術学園の校舎はむしろ清潔感が漂うようであった。
 ジンが今歩いている艶のある板張りの廊下の上には赤絨毯が敷かれており、短い間隔で並ぶアーチ型をした木枠の窓からは明るい光が降り注いでいた。
 同様の窓が教室側にも取り付けられており、横の空間に開放感を与えていた。
 汚れのない真白の壁や外に見える豊かな緑、そして天井から吊るされた仄かに色づいた電灯。全てが一体となってただの廊下一つにも品位を感じさせていた。

「学園ってこんな感じなんだなー」

 ジンは自分しか歩いていないので、好奇心から見回していたが、決してこれはスタンダードではない。魔術学園の設立の出資者は須らくが上流階級の人間であったために内装に資金を回す余裕があるだけなのだ。そもそも学び舎という施設一つで電車が止まる時点で尋常でないことに頭が回らないのであろうか。

「D組は学生棟四階の一番端っこっと」

 学生が主に学ぶ学生棟、教員が研究などを行っている職員棟、部活動などを行う部活棟、この学生棟を中心として渡り廊下などによってアクセスできるようになっている。
 ジンは現在職員棟二階から来て、二階廊下を端まで歩いてきた。そして廊下両端と中心の三箇所にある階段の内の端の階段を昇り四階まで、そして丁度上がった先がD組の教室である。

「……はあ…………はあ」

 若干息が上がっていた。階段を上がっただけである。いくら大きな校舎といえど、別段とても長い階段を昇らされていたわけではない。
 余談だが、寮から食堂へ降りる際も結構な体力を消費していたのである。

「…………よしっ」

 重厚なブラウンの扉の前で息を整え、金の取っ手を押してジンはゆっくりと扉を開いた。
 四足の木机が碁盤目状に並ぶ教室の中は既に学生たちが集まっており、数人が入ってきたジンをちらりと見て、すぐ会話に戻っていった。
 ジンが黒板をちらりと見ると、バカでがく『NEW学おめでとう!』とバカみたいなことがカラフルで書いてあった。

「……」

 無視することにしたようだ。
 教室の中に入り、空いている席はないかと全体を見回すと自分に向かって振られている手があった。
 中心近く、女の子が数人集まっている席、その中の一つにツキがおり、微笑と共に軽く手を振っていた。
 そして口パクでおはようございますと言っているのが分かった。
 それに答えるように、ジンは控えめに手を挙げた。
 さすがに女子グループに混ざることもできないので、ジンが結局一番後ろの廊下側の席が空いていたのを見つけ、席に着いた。

 先生が来るまでまだ時間がありそうなので、ジンは机に肘をつきながら視線を彷徨わせた。
 一番目を引くのは集まっている制服組であった。
 代表として挨拶をしていたリーアルトの周りには人だかりができており、パーティーの延長のようにこぞってお家の挨拶をしていた。
 
 そして窓側一番前、ジンからは背中しか見えないがそれでも目を引く少女が一人。
 蜂蜜色のショートヘア、そして前髪の両端が寝癖のように飛び出している……ように見えるが、実際は犬のような耳が生えているのである。
 ジンは何となく、同じように獣耳が生えていた昔の友人メアを思い出していた。

 別段話しかけに行くわけでもなく、そのまま視線を移動させていると……。

「……レクス?」

 入学式前以来、顔を見ていなかった友人が教室に入ってきた。
 そのままジンと目が合い、当然ジンの元へ向かうかと思われたが。

「……へ?」

 レクスは目を細めた。軽蔑するかのように。
 決して友人へ向けるようなものではなかった。ジンはレクスの紫の瞳に苛立ちや不快感が渦巻いているのをはっきりと感じ取ってしまった。
 ジンに隠すことが一切なければ、真っ直ぐと見つめ返すことができたのかもしれない。
 しかし、ジンには隠し事や後ろめたいことが多すぎた。
 自分を非難するかのようなその目に、数秒と堪えられず目をそらすと、レクスは窓側、ジンの反対側へと向かって行った。
 その二人のやり取りは、決して気づかれるものではなく、レクスは席を探して立ち止まっただけだと認識されるはずである。
 しかし、三人に内のもう一人、ツキは二人の間の不穏な空気を感じ取っていた。
 レクスがジンの下へ向かわなかったのは、ジンの周囲の席が空いていなかったからだと好意的に解釈することはできなくもないが、短い付き合いでもわかることはある。
 押しの強いレクスなら、無理矢理にでもダチの横に座ろうとするはずである。
 決して、一瞥しただけで終わらせるような男ではないし、言葉の一つも交わさないなんて事はありえない。

 ジンはレクスから敵意を向けられた。
 ツキは二人の間の不穏な何かを感じ取った。
 レクスはジンに敵意を送った。

 ジンはピシリと、ガラスにひびが入ったような音を聴いた。
 それは、かつて……五年前にも聴いた音だった。



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